BIOGRAPHY

1956年、長野県生まれ。スピードに対する興味が人一倍強い土屋は、長野から富士スピードウェイまで原動機付き自転車(通称 ゲンチャリ)でレース観戦に行く程であった。その時に目にした光景が今の土屋の原点である。それは、沢山のレース車両の中で1台だけ土屋には見えるオーラを発した車が高橋国光選手の走りであった。高橋選手は数あるレース車両の中でも唯一、ドリフト(自動車の後輪を滑らせて走る走法)をさせてコーナーを駆け抜けるレースをしていた。この光景を目に焼き付け、免許取得と同時に今まで以上に車に熱中する。
当時は腕を磨く為のサーキット走行場所が少なく、もっぱら近所の峠や、雪のワインディングロードなどで腕を磨いた。幾度となく走り込み長野県周辺の山(峠)を制していく。しかし、このままでは進化しないと考え、レースの世界へと進む事を決意する。その為には昼夜働き詰めでレースの為の資金を自らの手で捻出。

そして、1977年に富士フレッシュマンレースにデビューする事となる。その後もツーリングカーを中心に苦しい生活の中レース活動を続け、1984年には富士フレッシュマンレースで伝説の6連勝を成し遂げる。翌年には全日本ツーリングカー選手権(グループA)が開催されると同時にステップアップする。ここで、派手なテールスライド走行から『ドリキン(ドリフト・キング)』の称号を与えられる。そして、『ドリフト』という言葉も定着させた男でもある。

1992年には、今の自分があるのは、この人への憧れから始まったと言っても過言ではない、高橋国光が結成した『チーム国光』へ抜擢されグループAの成功、人気の立役者の1人になる。
1993年には、N1耐久レースに於いてチームをシリーズランキング第3位に導く。1994年には、JTCCにシビックで参戦し、第4戦、第14戦で4位。また、GT選手権では、ポルシェターボをドライブし総合優勝を果たす。
1995年、ル・マン24時間レースにはNSX-GT2で参戦し、予備予選でGT2クラス2位のタイムを叩き出し見事に大任を果たした。決勝では、ピットスタートにもかかわらず、脅威の30台抜きを決め、GT2クラス優勝に貢献する大活躍を披露した。
1996年には、日本初上陸のNASCAR(アメリカではメジャーリーグベースボール、アメリカンフットボール等と人気を博すモータースポーツ)へ挑戦し日本人最上位を獲得。また、ル・マン24時間へも参戦し3年連続完走。全日本GT選手権へは、ホンダNSXで参戦。

そして、1997年には、5年間在籍したチーム国光を離れ、新たにチーム・ラーク・マクラーレンでル・マン総合優勝に挑戦した。予選はタイムアタッカーとして総合10位を獲得するが、決勝レースはリタイアとなった。しかし、ここでの速さは海外でも十分アピールできた。国内での活動は、全日本GT選手権及び全日本ツーリングカー選手権へ参戦した。また、第2回NASCAR鈴鹿サンダースペシャルでは、旧車にもかかわらず予選7位、決勝11位と2年連続日本人最上位を果たす活躍を見せ付けた。
さらに1998年には、日本人初のオーバル・コースでのNASCAR参戦。また、体制を一新してのル・マン24時間は、トヨタ・ワークスのTS020で、片山右京、鈴木利男らと参戦、見事、初レース総合9位。全日本GT選手権では、スープラで参戦。開幕戦で3位を獲得。また、全日本ツーリングカー選手権へは、97年に引き続きチェイサーで参戦し、第1戦で3位を獲得する。
1999年には、再び、トヨタTS020でル・マン24時間レースに挑む。日本人トリオでの最高位である、総合2位を獲得することとなる。全日本GT選手権へは98年同様スープラで参戦。

そして2000年には、AUTOBACS RACING TEAM AGURI(ARTA)より鈴木亜久里とペアを組み、再びNSXで全日本GT選手権に参戦。また、ル・マンには、テレビ朝日レーシングチームより、パノスで参戦し総合8位へと導いた。さらに、99年より参加しているスーパー耐久シリーズでは、毎レース表彰台の一角を占める。

こうして、ル・マンへは、5年連続出場を果たす。2001年には、全日本GT選手権に鈴木亜久里が監督を勤めるチームARTAより参戦。第6戦で優勝。総合ランキング2位。翌年は、ARTAより全日本GT選手権へ参戦。数々のドラマ、記憶に残る走りでランキング10位。
そして、2003年はARTAより新しいパートナー金石年弘選手と全日本GT選手権に参戦、シリーズ開催中に衝撃の今期限りでの引退を表明する。最終戦の鈴鹿ではスタートドライバーを務めスタート直後から守りの走りではなく、オープニングラップの鈴鹿名物高速コーナーの130Rをアウト側から抜き去り、リタイアやクラッシュを恐れない攻めの走りで観客を魅了する。結果苦戦を強いられたNSXで自身今年度最高順位である6位で幕を閉じ、勇気と感動をファンのみなさんに忘れられないものとした。レース後の引退セレモニーも感動や歓喜にあふれるものであった。
翌年からはARTAでGT300、GT500の監督を務め若手育成にいいままでのレースキャリアで得たノウハウを惜しみなく指導する。
2005年以降はARTA監督、エグゼクティブアドバイザーとして新たな旅立ちの年を向かえ、今 なお、日本中のサーキットを走り続けている。

このように、アグレッシブで妥協を許さない粘りある生き方に多くのファンが共感し賛同する。また、レース活動以外にも、土屋は、自分の走りの原点に返り、2001年から全日本PROFESSIONAL DRIFT選手権『D1-GP シリーズ』を旗揚げし、審査委員長として、土屋圭市としてD1選手を公私ともに指導する。その甲斐あってD1選手の熱い走りに、本人もさることながら、全国の走り屋を公道からサーキットへ導いた功績がある。
そして、一般のサーキット走行を楽しむ人たちにも、さまざまなチューニングショップ主催の走行会を通して、土屋自身が得た技術を惜しみなく多くの車好きに広める為に、サーキットの攻略法を伝授する。同時にメンタルとは何かをも指導している。

また、数あるメディアバリューの中でもHot Version video『HOT-V』や、Best MOTORing『BM』、にもレギュラー出演し、本当のクルマの楽しさを伝えることに全エネルギーを注いでいる。その、HOT-Vでは、現役のレーシングドライバーをゲストに迎え、読者の喜ぶ企画までも遂行し、現在でも2万本ほどの販売実績を誇る。

フジテレビのF1解説を経て1999年からフォーミュラ・ニッポンのレギュラー解説者となり、フジテレビ すぽると『フォーミュラ・ゾーン』レギュラー出演を経験、BSチャンネル721(現 フジテレビNEXT、フジテレビTWO)『F1-日本GP』実況解説、J-WAVE『Bridgestone automobile radio』のパーソナリティーを同局のグルーブラインで大人気のピストン西澤と務め、業界人の注目を浴びる番組へと成長させる。『AUTOSPORT』『XaCAR』『ENGIN』『onlyMersedes』への筆頭。と、各方面でその才能を遺憾なく発揮し幅広く活動中。また、過去には日本で最も権威のある『日本カーオブザイヤー』の選考委員も務める。
近年の時代背景から、自身がホストを務めるYouTubeチャンネルの【ドリフトキングテレビジョン】を開設し、新たな発信を模索。
日本のみならず全世界で、自動車を語る時には欠かせない存在の一人である。